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国登録有形文化財

国登録有形文化財に指定された建物

登録有形文化財(建造物)とは

   平成8年10月1日に施行された文化財保護法の一部を改正する法律によって,保存及び活用についての措置が特に必要とされる文化財建造物を,文部科学大臣が文化財登録原簿に登録する「文化財登録制度」が導入されました。
   この登録制度は,近年の国土開発や都市計画の進展,生活様式の変化等により,社会的評価を受けるまもなく消滅の危機に晒されている多種多様かつ大量の近代等の文化財建造物を後世に幅広く継承していくために作られたものです。届出制と指導・助言等を基本とする緩やかな保護措置を講じるもので,従来の指定制度(重要なものを厳選し,許可制等の強い規制と手厚い保護を行うもの)を補完するものです。
文化庁HP 有形文化財より抜粋
http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/yukei_kenzobutsu/

文化財登録にむけて

   木造本館は湯治部としてたくさんの旅人を癒し、憩いの場として親しまれてきた建物です。私も子供ながらにすごい建物だと感じていました。しかし高度経済成長と共に旅館は大型化し、木造建築から鉄筋コンクリートへ建て替えるところが増えました。私が中学3年の時には東北新幹線が開通(当時は大宮駅止まり)し、団体客が増えいきますが、自分の宿に目を向けると、建物は以前と変わらず。そして湯治客は少しずつ減っていく状況。将来のことを考えている時、私はこう思いました。この木造本館を取り壊してホテルを建設しようと。
   ホテルの勉強をするため上京しホテルへ勤務し、経験を積みます。1999年に旅館へ戻りそろそろ旅館にも慣れてきた2003年に、19代目の父が急逝。急な世代交代となります。木造本館をどうしようかと悩みつつ、一部を個室料亭にしました。それが評判となり2008年に木造本館を全て個室料亭にします。
   自分ではお荷物と思っていた場所が個室料亭となり、価値のある建物に変身。亡き父が高度経済成長の時であっても、あえてこの木造本館に手を加えなかった理由がなんとなく分かったのは、世代交代をした後の出来事。若さゆえに目先のことしか考えられなかった自分が恥ずかしく思うことがあります。どんな想いで建設し、どんな想いでこの建物を守ってきたのか。それを代々伝えるために文化財登録への申請を進めました。

   2016年3月に当館の木造本館2棟と土蔵が「国登録有形文化財」に指定されました。これには2年の歳月がかかっています。
   時間がかかったのには理由があります。当館の木造建築は宮城県内でも最大級を誇ります。よってその図面を仕上げるのには多くの人の協力が必要であったからです。この度の調査にあたり尽力をいただいた、(株)伝統建築研究所の高橋直子社長と調査監修・助言をいただきました神奈川大学名誉教授 西和夫先生にはたいへんお世話になりました。ここにお礼を申し上げます。

   これより所見と図面を紹介いたします。写真でお見せするのが分かりやすいかもしれませんが、ここはあえて図面にいたしました。写真では読み取れない木造建築の縦と横の美しさを感じ取ってほしいからです。

   この建物をこれより先ずっと大切に磨き上げ続け、日本はもとより海外の皆さまにも見ていただけるよう保存してまいる所存です。

   土蔵については関係者以外立ち入りをご遠慮頂いておりますが、木造本館と湯向棟につきましては「個室料亭 匠庵(しょうあん)」として利用しております。湯主一條にご宿泊いただいた際はこの料亭で「森の晩餐」を楽しむことができます。どうぞ日本の伝統技術、建築美を味わいにいらして下さい。

   皆様の貴重なひと時が、かけがえのないものとなりますように。

20代目当主 一條一平

湯主一條旅舘・木造本館の所見

木造本館

   木造本館は湯主一條の建物群の中で鎌先温泉街一番手前に位置しており、桁行12間(22.14m)、梁間5.7間(13.32m)の地上3階、一部地下1階の木造4階建て、入母屋造、鉄板平葺きである。小屋はトラス形式の非常に規模の大きな木造建造物である。傾斜地に建つため、地下1階部分は建物全体の北側1/3程度で、それ以外の部分は高さ2.5mの白御影石の切石積となっている。建物の下にはコンクリートで護岸された水路があり、背面の山からの水が流れるようになっている。
   外装は、各階に回された庇は銅板平葺き、軒は1軒、化粧垂木は2間を9割するように配されている。外壁は北・東・南面のほぼ全面が木製建具であり、外側に高欄が回されている。壁は欄間上部の一部に白漆喰壁、最下層部分は板壁である。隣接する棟からの延焼のおそれがある部分は昭和50年代に一部モルタル下地のリシン吹付仕上げとした。
   平面は外周部4面に回廊、西面に8帖4間と6畳1間、東面に6畳4間と4.5帖1間が横並びとなり、各々1間の床の間と飾り棚を背にして配置されている。各階を結ぶ階段は北・南の回廊沿いに配される。1~3階はいずれも同様の平面形状である。内部仕上げは、2~4階の回廊は板床、各部屋は畳敷、壁は回廊部は薄墨の漆喰壁、部屋は白漆喰塗。天井は回廊部・部屋ともに棹縁天井、床の間は吹き寄せ天井である。地下1階は内部で2室に分かれており、北側を床屋、南側をマッサージ屋として使用していた。北側居室は西側通路に面して土間がついた6畳間があり、障子を隔てて奥に6畳間、その奥にコンクリート擁壁との間に納戸がある。南側居室は北側同様に西側通路に面して土間があり、幅半間の通路があり障子を隔てて北側に8畳間、東側に4畳半が続く。その奥にある板戸を介して納戸に通じる。内部仕上げは床は畳敷き、壁は白漆喰塗、天井は棹縁天井である。
   木造本館は昭和12年の集中豪雨に伴い建物が大きく壊れたことにより昭和15年に着手、上棟、翌16年に完成している。その工事は前述の塩谷正吉氏の父親藤吉氏が請け負った。木材は一條家が所有する山から切り出した100年生の杉を使用し製材から手がけた。伐採・製材開始から落成まで約2年半の年月を要した。大工は塩谷棟梁の直轄大工のほか、気仙地方の大工にも手伝いを頼んだという。塩谷氏所有の昭和15年の上棟時の写真、昭和16年6月の落成時の写真に数多くの大工職人と思われる人々が映っている。上棟時のそれには「白石鳶組合」の幟がたつ。落成時写真の裏書には棟梁名、副棟梁名。その他職人の名前がある。左官工事は白石市の奥山工務店であった。
   昭和30年まで前面は通路は石段であったため、建築材料を運ぶのもすべて人力で行った。建前時には人足の数は300人にもなり、1週間ほど続いたという。また、当時は統制の時代で、釘・金物の入手には困難を極めたため、継手や仕口には金物を使用せずに木を組み上げ、また柱も主要柱61本中33本を33尺長さの通し柱とするという木工事を行った。屋根も入手可能なセメント瓦で葺きあげた。
   改修履歴は、戦後に屋根を鉄板平葺きとしたこと、延焼のおそれのある部分の外壁仕上げを改修したこと以外、大きな変更は行っていない。東日本大震災時にも、木造本館は一部の外周部の木製建具が外れたのみで被害は全くなかった。
   このように、木造本館は規模の大きさ、創建当時の姿を維持していること、また湯主一條のみならず鎌先温泉街の顔としての圧倒的な外観意匠は、国土の歴史的景観に寄与し、また再現することが容易でないものとして重要であると考える。

平成26年12月26日作成

【調査・所見記入】株式会社伝統建築研究所 代表取締役 高橋直子
【調査監修・助言】神奈川大学名誉教授 西和夫

木造本館

湯主一條旅舘・湯向棟の所見

湯向棟

   湯向棟は木造本館の南側に隣接して建つ。桁行8.7間(15.87m)・梁間5.7間(10.41m)、切妻造り、鉄板平葺きの木造2階建てである。傾斜地に建つため、湯向棟の1階は木造本館の2階と、2階は木造本館の3階と鉄筋コンクリート造の水屋を介してつながっている。
   外装は北・南面のほぼ全面が木製建具であり、建具の内側に高欄が回されている。外壁は欄間上部の一部に白漆喰壁、一部外壁はモルタル下地のリシン吹付仕上げとなっている。基壇部分は白御影石の切石を4~5段に積み、土台をまわす。庇は銅板葺き、出し桁とし、化粧垂木をみせる。本屋根の軒裏はボード貼り。
   平面は外周部4面に回廊、西面に8帖2間と6畳2間、東面に8畳2間と6帖2間が横並びとなり、各々1間の床の間と飾り棚を背にして配置する。1~2階を結ぶ階段は南東端に1ヶ所配されているが、かつては南西側にももう1ヶ所あったが、今は撤去され床が張られ手摺の痕跡があるのみである。1・2階はいずれも同様の平面形状である。内部仕上げは、回廊は板床、各部屋は畳敷、壁は回廊部は腰板壁をまわし、上部は白漆喰塗。各部屋は白漆喰塗。天井は回廊・部屋ともに棹縁天井、床の間は吹き寄せ天井である。
   湯向棟は昭和8年に落成している。施工は木造本館に同じく塩谷藤吉氏が請け負っている。
   創建時からの改修としては、隣接する部分の増改築が行われているが、その他は屋根の改修、前述の階段の一部撤去、渡り廊下の設置および外壁の一部改修以外大きな改修は行われておらず、創建当時の姿をよく残している。
   東日本大震災時にも、木造本館同様大きな被害はなく、堅牢な石積みの上に建つ偏心のしにくい強固な建物であるといえる。
   このように、湯向棟もその規模の大きさ、しかしながら軽やかな木製建具で形成された美しい外観意匠をもつこと、そして創建当時の姿をよく維持していることは、木造本館と共に鎌先温泉郷の印象的な景観を作り出している。これは国土の歴史的景観に寄与し、また再現することが容易でないものとして大変重要であると考える。

平成26年12月26日作成

【調査・所見記入】株式会社伝統建築研究所 代表取締役 高橋直子
【調査監修・助言】神奈川大学名誉教授 西和夫

湯向棟

湯主一條旅舘・土蔵の所見

土蔵

   土蔵は湯主一條敷地の南側の斜面地にあり、事務所棟が建つ地盤から鉄骨階段を約7mほど上がった敷地に建つ。鉄骨階段は避難階段として設置され、土蔵の背面南側の斜面を越える避難通路に通じている。この階段を設置するに際し、土蔵西側に並んで建てられていた板蔵を解体している。
   規模は桁行5間(9.02m)、梁間2.5間(4.47m)、土蔵造り2階建て、切妻造りで鉄板横葺きの置き屋根がのる。北側出入口には庇がつく。基礎部は凝灰岩の切石が廻り、腰部分には水切り蛇腹がまわり、その下に約1.5m高さまで下見板張、上部は白漆喰の塗込め壁である。2段になった軒蛇腹は、妻面には眉を伴った意匠である。また開口部のまぐさと出入口の縦枠、及び土扉に黒漆喰塗が見受けられるなど、重厚な印象を与えている。出入口には現在は固定されているが塗込めの土扉があり、内部には片引きの二重板戸と縦格子戸の三重である。4寸5分の柱を北面のみ1尺5寸間隔、その他の3面は3尺間隔で立ち、床は1.2階とも板張、内壁は柱間に板を縦張りしている。小屋組みの材料は重厚で1.35尺×1.1尺の棟木、1尺3寸の梁、6尺ごとに7寸の上り梁が組まれている。天井は1階は根太天井、2階は小屋裏表しである。1階の中央の入り口よりに後補の丸柱が梁下に1本ある。東側に収納棚を伴った箱階段がある。2階床中央には階下との換気のための格子組がある。また各々の妻側にある窓の内側には左右に敷居が伸び、内障子と板戸その上にあり2種の建具を使い分けることができる。外側には土窓が備えられている。
   塩谷正吉氏の話により、土蔵の建設は江戸期と伝えられている。現在の置き屋根は新築か改修かは不明であるが、塩谷藤吉氏の手によるものである。改修記録はないが、内部の木材状態から見ると、柱の経年程度と壁板のそれとは違いが見受けられるため、内装には若干の手は入っているものと思われる。しかし、大きな改修を行われておらず、当初の姿を良くとどめている。
   この土蔵も東日本大震災による被害はなく、その強固なつくりを証明している。湯主一條の大正、昭和初期の大規模木造建築物郡の中で一段高い敷地に建つこの白漆喰壁の土蔵は、全体の景観に変化を持たせるとともに、歴史的経緯を示す貴重な建築であると考える。また整った外観意匠であることから、国土の歴史的景観に寄与し、また再現することが容易でないものに該当するものあると考える。

平成26年12月26日作成

【調査・所見記入】株式会社伝統建築研究所 代表取締役 高橋直子
【調査監修・助言】神奈川大学名誉教授 西和夫

土蔵